白井 晟一の「原爆堂」展 新たな対話にむけて

白井晟一の「原爆堂」展にあわせて制作された動画「未完の建築」。
動画には未収録の内容も含めて再構成したインタビュー記事を掲載します。

建築は、「対話」をつくり出すメディア (3/3)

宮本佳明さん(建築家)

「戦後何年」というのも同じですね。長い時間軸の中で建築を考えるようになったとのことですが、もし原爆堂が実現するとしたら、やはり相当長い時間残るものとして想定されるだろうと思います。ひとつの建築が長い期間残るということに対してはどう考えますか。

宮本:建築の役目のひとつとして、「記憶の器」ということがよく言われます。何か器がないと記憶って残っていかない。我々の記憶や思い出って背景と一緒じゃないですか。あの人とあの場所で会ったとか。背景とか風景は重要で、建築にはそういう役割がある。なぜ「器」という言葉を使うのかというと、建築にせよ、風景にせよ、自分より大きいものですよね。包まれている。風景がなくなってしまうと、人間としてのアイデンティティも消えてしまうような関係がある。だから、できるだけ建築は永続したほうがいいんだと思っています。

「原爆堂」はその名称にも非常に強いインパクトがあります。広島には、正式名称に「原爆」と名の付く建物はないんですよね。広島の原爆ドームも正式には「広島平和記念碑」です。何か、こうした建築がつくりにくいような背景はあるのでしょうか。

宮本:「負の記憶」にかかわるものは、つくりづらいものだと思います。東日本大震災のときに津波で児童74名が亡くなった石巻市立大川小学校は、いまも建物が壊れたまま残っていて、震災遺構として残すことが決まっています。そのコンペに僕も参加したんですよ。結局、案は通らなかったのですが、やっぱりデリケートですよね。たとえば、誰のために残すのか。ご遺族といっても、住んでいる地域、学校に対する思いはそれぞれ違います。それに、ご遺族のためだけに残すのではなく、未来の誰かに対して残すのかもしれない。そうやって、いろいろなことを考え出したら、すごくしんどい。

だけど、僕自身は、負の遺産を残すことは大事だと思っています。負の記憶といっても2種類ある。震災や災害の記憶そのものを残すことには反対する人は多いんです。だけど、その前にあった楽しかった生活とかの記憶を残すことに反対する人はまずいない。東北の被災地を被災した人が案内してくれるときに、家の跡に連れていってくれて、ここに玄関があって、ここが居間でテレビがここで……と、みなさん大体そうやって案内してくださる。そういう災害前の記憶の保全というのも大事で、2つをちゃんと分けて考える必要があると思いますね。

なるほど。結局、「原爆堂」はまだ実現していないわけですが、日本で「原爆堂」のような建築を、しかも一個人がつくるというのは、かなり難しいのではないかと感じます。

宮本:建築はクライアントをはじめとして関係者がすごく多いですし、大きなお金も使うので、いろいろ人に対して責任を負ってしまうんですよね。だから、多くの場合、やっぱり思い通りにはならない。良かれと思って提案したことも、必ずしもそういう風にとってもらえないということもあります。福島第一原発神社の模型も、もしクライアントがいたら造れるわけがない。その難しさはあります。

白井晟一さんの息子である昱磨さんが晟一さんのことを「倫理的だったが道徳的ではなかった」と語っていたという文章を読んで、それがすごく面白いと思ったのですが、「モラル」の日本語訳としては、「倫理」でもいけるし、「道徳」でもいけるんですよ。でも、社会学の分野では、完全に意味を峻別して使っている。道徳的というのは自分が属している共同体の声に従うことで、倫理的というのは自分の心に聞いてやましくないということ。似てるようでいて、実は対立する概念になってる。

白井晟一さんは、その2つを意識的に対立させていた、ちっとも道徳的じゃなかったんだけど、自分に恥ずかしくないようにやる。原爆堂を造るにあたっての設計の態度もそこに通じますよね。僕も、やっぱり倫理的にやらないといかんなと思いました。

国のアイデンティティやイデオロギーみたいなものが反映されてきた建築の例はあっても、たとえば「戦争はよくないよね」というような表現をしている建築は、海外にはあっても日本ではほとんど見ません。そういう表現と建築のかかわりについてはどう思いますか。

宮本:それは難しい質問ですね。そもそも建築は、何か国柄とかを表現するようなものではないと思うんですよ。建築自体は、媒介、メディアに過ぎない。たとえば原爆堂のスケッチだけを見て、僕がいろいろ勝手な解釈を言いましたよね。それをもとに対話ができるというようなところが、建築で一番大事なところじゃないかと僕は思っているんです。

昔、僕が描いた文章に「建築や空間は時に我々に喜びを与えてくれると同時に、社会の現実を常に外部に在りながら、現実以上にリアルに見せつけてくれる、素晴らしく厄介なメディアとして存在する」というのがあります。よく建築家が「◯◯を表現しました」とか言うじゃないですか。それは何か間違っているような気がするんです。それは、白井晟一さんが書いている「自分に与えられた構想力の、アプリオリな可能性だけをおいつめてゆく」というところにもつながるような気がする。「こういう理由があって、これが建ちました」ではなくて、自分の中にわあっと降りていって湧いてきたものだけを置く。それに対して、いろいろな人がいろいろなことを感じる、というのが本当の建築のあり方じゃないかと思います。

原爆堂を媒介にして対話へつなげてほしいというのは、まさに今回の展覧会の目的と同じです。

宮本:僕は、原爆堂を過去のプロジェクトだと思っていましたが、この原爆堂展を主催する原爆堂建設委員会は、この建築をいまも実現させたいと考えているんですよね。発表されてから時間がずいぶん経っていますけど、むしろ機が熟したというか、今の時代だからこそ実現しそうな気もしています。原爆堂のような建物が日本にないというお話がありましたけど、焦らずにいまから造っていくことを考えればいいのではないでしょうか。

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