白井 晟一の「原爆堂」展 新たな対話にむけて

白井晟一の「原爆堂」展にあわせて制作された動画「未完の建築」。
動画には未収録の内容も含めて再構成したインタビュー記事を掲載します。

建築は、「対話」をつくり出すメディア (2/3)

宮本佳明さん(建築家)

発表された時には、周りの方々からのリアクションはどうだったのでしょうか。

宮本:2012年3月に大阪で個展の話があったのが最初だったのですが、場所も大阪だったし、小さなギャラリーだったので、そんなに話題にもならないだろうと思って引き受けたんです。そうしたら次の年には、福島でやらないかという話がありました。主催者は、福島の中でも中通りでやるのか、浜通りでやるのか、会津でやるのかと、だいぶ考えられたみたいなんですが、さすがに会津でやろうということになりました。会津若松市にある福島県立博物館でやったのですが、これには批判も多かったですね。避難区域内から会津に避難して来られてる方がたくさんいるので、観客の半分ぐらいは批判的な感じでした。館長の赤坂憲雄さんとトークショーをやりましたが「どうしてこんなことやるんですか」という質問をされる方もいました。

被害を被った人たちにとって、福島第一原発は憎い存在です。それを神社にするということに、むしろ原発を崇め奉るようなイメージを持たれるみたいです。僕としては、そうではなくて、いわゆる「荒魂(あらたま)」、荒ぶる魂を鎮めるために神社を造ることもあると説明するのですが、感情的に受け入れられるものではないみたいでした。

「福島第一原発神社」は、アンビルド、つまり建てないことを前提にしたプロジェクトなのでしょうか。

宮本:違うんです。本気でこれしかないと思っています。廃炉の作業が進められていますけど、溶融した燃料は相当残りますよね。だから、100年後とか200年後とか、どこかでこういう話が出てくるだろうと思うんです。それで結局、原発を水棺化して保存するとなったときに、一番安全に保管できる意匠、デザインは何かと。神社というのは、政教分離からいうとちょっと実現するのか分からないですけど。でも、そこは本気なんです。

たしか以前に、活断層のうえに宗教的な場所があるというようなお話をされていたと思うのですが……。

宮本:ああ、それは大阪府にある古市古墳群のことですね。その話と原発神社のことは結び付けて考えていなかったですが、すごく狭い範囲に100基を越える古墳が集まっているところなんです。そのなかでも古墳が一列に連なっている場所があって、調べていくとその下に活断層があるんです。これは勝手な想像ですけど、活断層の上にかさぶたのように古墳を置いたんじゃないかと。そうとしか見えないんですよ。

カリフォルニア州に活断層法という法律があるのですが、活断層のラインから50フィート以内は建築禁止というものなんです。それと同じことを古市古墳群は物理的にやろうとしたんじゃないかと考えたんです。「ここは神聖な場所」となってしまえば、もう何も建てようがないですから。

それは面白いですね。白井晟一が原爆堂を設計した背景には、原爆につづく第五福竜丸の事件のがあったわけですが、宮本さんには、阪神大震災後の《「ゼンカイ」ハウス》や《「ハンカイ」ハウス》といったプロジェクトもあります。2つの震災を経て、考え方の変化みたいなものはあったのでしょうか。

宮本:強く意識しているわけじゃないんですけど、いつの間にか時間軸というのを考えちゃっていますよね。長い時間軸の中で建築を考えるようにはなりました。「災間」という、災害と次の災害までの間の期間を表す言葉がありますけど、そのことは意識しますね。災害は非日常で災害が起きていないほうが日常だ、という感じはなくなりました。

それと、我々は元号とかで平成何年、昭和何年とかって数えますけど、特に阪神大震災のあとは「震災後何年」と数えたんですよ。今でも「東日本大震災から何年」という数え方をしますよね。災害を経験したことが、いまを考えるときのベンチマークになっています。

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