白井 晟一の「原爆堂」展 新たな対話にむけて
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年表「原爆堂計画の時代」Messages for the exhibition

1955年に原爆堂計画は発表されました。その前後の年にも「核」を主題とした作品が、様々な形で製作されています。原爆堂計画を取り巻く時代を、歴史的背景とともに年表にまとめました。

1945

歴史
7月アメリカが人類初の核実験
アメリカ・ニューメキシコ州で人類史上初となる核実験が行われた。これによって「核の時代」の幕が開く。
この「トリニティ実験」で使われた爆縮式プルトニウム原子爆弾は、長崎県長崎市に投下されたものと同型であった。この原爆の研究・製造を行ったロスアラモス国立研究所・初代所長であり、マンハッタン計画を主導したのが「原爆の父」と呼ばれるJ.ロバート・オッペンハイマーである。
6月・8月アメリカ・ロスアラモス国立研究所で臨界事故
8月広島・長崎に原爆投下

1946

歴史
7月アメリカがマーシャル諸島ビキニ環礁で戦後初の核実験
8月太平洋戦争終結

1949

歴史
8月旧ソ連が初の核実験
8月「広島平和記念都市建設法」公布・施行

1950

歴史
3月平和擁護世界大会委員会による核兵器廃絶を要求する「ストックホルム・アピール」採択
文化
美術《原爆の図》 丸木位里・丸木俊

1951

歴史
9月サンフランシスコ講和条約調印
文化
文学『原爆の子 - 広島の少年少女のうったえ』(岩波書店) 長田新
「肉体に対するこのような破壊力もさることながら、同時にその結果として、人と人との関係に測り知ることのできない無数の精神的不幸をもたらした。〈中略〉
『あの惨劇を惹き起こした原爆は二十数万の生命を奪ったばかりではなくて、更に生き残った幾十万の人間の魂をどんなに傷つけたことだろう。原爆は眼に見える不幸とともに、到底測り知ることのできないほど大きい、眼に見えない不幸を生んだのだ。』」
(長田新『原爆の子』岩波書店 序文)

1952

歴史
4月GHQによる日本の占領統治が終了
10月イギリスがオーストラリア・モンテベロ島で初の核実験
11月アメリカ、マーシャル諸島エニウェトク環礁で水爆実験に成功
12月カナダ・チョークリバー原子力研究センターの実験用原子炉NRXで緊急停止失敗事故(レベル5)
文化
漫画『鉄腕アトム』(光文社) 手塚治虫
映画『原爆の子』 新藤兼人(監督)

1953

歴史
3月ソ連・キシュテム再処理施設で臨界事故
8月旧ソ連が水爆実験に成功
12月国連総会でアイゼンハワー米大統領が演説し、「Atoms for Peace(平和のための原子力)」を訴える
ニューヨークで開かれた国際連合総会で、アイゼンハワー米大統領は「平和のための原子力 Atoms for Peace」と題する演説を行った。演説の大半は核兵器についてであったが、最後にこのように述べる。
「米国は、恐ろしい原子力のジレンマを解決し、この奇跡のような人類の発明を、人類滅亡のためではなく、人類の生命のために捧げる道を、全身全霊を注いで探し 出す決意を、皆さんの前で、ということは世界の前で、誓うものである」
これを機に、1957年に国際原子力機関(IAEA)が発足し、核に対して負のイメージが強かった日本でも原発が推進されていく。
文化
映画『ひろしま』 関川秀雄(監督)
シーン162 (警察の捜査主任の部屋)
読んでみないか
The first and great honour which history of humanity shine on this head 6 Aug.1945
どんな意味だね?
人類史上、最初にして、且つ最大なる栄光、この頭上にかがやく・・・1945年8月6日です
「幸夫は狂気したように叫んだ。主任も北川も息を呑んで幸夫の指先を見つめた」
(『映画「ひろしま」オフィシャルブック』小笠原デザインスタジオ)
美術《人間気化》 鶴岡政男
コラム「原爆文学について」 中国新聞

1954

歴史
2月アメリカ・ロスアラモス国立研究所で臨界事故
3月第五福竜丸の乗組員23名が、アメリカが行った水爆実験によりビキニ環礁で被爆
第五福竜丸は、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験により被ばくした遠洋マグロ漁船である。爆心地より160km東方の海上で操業中に「死の灰」が降り注ぎ、乗組員23名が被ばく。半年後に無線長が死亡した。被ばくしたのは第五福竜丸だけでない。各地の漁港に水揚げされた汚染マグロは「原子マグロ」「原爆マグロ」と呼ばれ市場がパニックになった。同年11月に公開された映画『ゴジラ』は、水爆実験によって安住の地を奪われた怪獣が文明社会に復讐する物語であり、このビキニ事件が下敷きになっている。また、55年に発表された岡本太郎の『燃える人』、アメリカの画家ベン・シャーンによる絵画連作『ラッキードラゴン』など、この事件に衝撃を受けてさまざまな作品表現が生みだされた。白井晟一の「原爆堂」計画も54年に始まっている。
8月新宿伊勢丹で「だれにもわかる原子力展」開催
文化
コラム「原子力と人類の転機」 湯川秀樹 毎日新聞
文学『半人間』(講談社) 大田洋子 ※表紙 岡本太郎
「さあ、眼をあけて。この人、だれ?」
「わかんない」
「わかんないじゃだめ。だれ?」
「人間」
「人間かア。動物かね。じゃ、この人は誰」
「人間」
附添婦たちは笑った。久留の泣き声がきこえた。
「今日は泣くの?だめですよ。なにが悲しいの」
「かなしくないわ」
(大田洋子『屍の街・半人間』講談社)P.259-260)
文学『死の灰』(岩波新書) 武谷三男
映画『君死に給うことなかれ』 丸山誠治(監督・脚本)
映画『ゴジラ』 本田猪四郎(監督)

1955

歴史
4月長崎国際文化会館(原爆資料展示室)が開館
7月核兵器による人類絶滅の危機を警告した「ラッセル・アインシュタイン宣言」
8月広島で第一回「原水爆禁止世界大会」が開催
8月広島平和記念資料館が開館
11月アメリカ・アイダホ国立原子炉試験場の高速増殖炉EBR-1で炉心溶解事故
11月日比谷公園で「原子力平和利用博覧会」が開催。この後、各地の新聞社とアメリカ情報機関の共催で全国11都市をまわる
12月「原子力三法」公布
文化
美術《ケロイド病者の原水爆防止の訴え》 上野誠
美術《黒い雨》 本田克己
美術《燃える人》 岡本太郎
美術《長崎平和記念像》 北村西望
映画『生きものの記録』 黒澤明(監督)
建築《原爆堂計画》 白井晟一

1955年 「原爆堂計画」 白井晟一

1956

歴史
5月広島で「原子力平和利用博覧会」開催  3週間で12万人超が来場
1955年11月、日比谷公園で読売新聞社とアメリカ広報庁による「原子力平和利用博覧会」が開催されたのを皮切りに、全国10都市での巡回展が行われる。目玉となったのは、実物大の原子炉模型や「マジック・ハンド」と呼ばれる、分厚いガラス越しに遠隔操作できる「魔法の手」だった。原子力が人の手で制御できることをアピールし、「幸福の源」のように扱われたのである。55年といえば、原子力三法が成立したのと同時期。原子力推進のために「被ばく国だからこそ平和利用を」という論理が展開された。1956年5月には、広島の爆心地に建つ平和記念資料館でも開催。期間中は、「原子力科学館」に名称が変更され、一時的に原爆犠牲者の遺品などの展示物が移されたという。広島での開催にあたってはアメリカ側から周到な根回しがあったとされ、「原子力平和利用」への動きを各地の有力紙などメディアが大きく後押しした。
8月長崎で第二回「原水爆禁止世界大会」が開催
9月日本赤十字社広島原爆病院(現・広島赤十字・原爆病院)開院
文化
デザイン「原子エネルギーを平和産業に!」 亀倉雄策
映画『続イカサマ紳士録 おとぼけ放射能』 田尻繁(監督)
デザイン「第2回原水爆禁止世界大会ポスター」 佐藤忠良
美術《核》 建畠覚造

1957

歴史
4月ソ連・キシュテム再処理施設で臨界事故
5月イギリスがクリスマス島で水爆実験に成功
7月国際原子力機関(IAEA)発足
7月「ラッセルアインシュタイン宣言」を機に発足した、科学者による第一回「パグウォッシュ会議」が開催
8月東海村の実験用原子炉が臨界実験に成功
9月ソ連・キシュテム再処理施設で高レベル放射性廃液の爆発事故(レベル6)
10月イギリス・ウインズケール1号炉で燃料溶解事故(レベル5)
文化
デザイン「灰は灰だよ」 河野鷹思
「私のことしの作品は水爆実験反対のポスターである。例により英文標語で対外国向にチクリと風刺をやってみた。展覧会出品でもない限りこうした種類のものが実際に作られる機会はないし、またポスター展では許される一つの試みだと思う。会場を足がかりにし創作ポスターを手段として、何か言いたいことを描いてみるのも無意味ではあるまい。これは私のささやかな社会戯評である。表現はいたってユーモラスだが意味は深刻である。そしてこの種の表現がポスターの持つ限界ではあるまいか。できればこの縮刷版を作って外国の知己に送ってみたい。人物は何を表わしているのか、と聞かれてもそれは見る人、見る人の国の立場によってちがってこよう。それでいいのである。『きれいな灰だって?じょうだんじゃない。灰は灰だよ、水爆だよ』」
(河野鷹思『日宣美 北海道展から「水爆反対」のポスター』1957年10月6日/北海道新聞)
漫画『星は見ている』(なかよし) 谷川一彦
映画『戦慄!プルトニウム人間』 バート・I・ゴードン(監督)/アメリカ
文学『渚にて』 ネヴィル・シュート/オーストラリア イギリス
映画『わが友原子力』 ウォルト・ディズニー(制作)/アメリカ
映画『純愛物語』 今井正(監督) 水木洋子(原作)
デザイン「第3回原水爆禁止世界大会ポスター」 栗津潔
美術《ラッキードラゴン》 ベン・シャーン /アメリカ

1958

歴史
1月ソ連・キシュテム再処理施設で臨界事故
6月アメリカ・Y-12化学処理プラントで臨界事故
10月セルビアのボリス・キドリッチ研究所で臨界事故
12月アメリカ・ロスアラモス国立研究所で臨界事故
文化
写真『ヒロシマ』(研光社) 土門拳
戯曲『マリアの首 幻に長崎を想う曲』 田中千禾夫
文学『千の太陽よりも明るく 原子科学者の運命』(文芸春秋新社) ロベルト・ユンク
映画『美女と液体人間』 本多猪四郎(監督)
音楽 オラトリオ(合唱曲)「長崎」 アルフレット・シュニトケ/ロシア
音楽 楽曲「原爆小景」 林光

1959

文化
映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』 アラン・レネ(監督)/日本・フランス
漫画『台風爆弾』(兎月書房) 水木しげる
漫画『消え行く少女』(日本漫画社) 白土三平
原爆症で母を亡くし、主人公自身も同じ症状に悩まされながら、行く先々で出会う人々との交わりを描く。戦後の復興の最中、賑やかな街の片隅でそっと暮らし、誰にも知れず静かに消えていった人たちがどれほどいただろうか。次第に忘れさられていく戦争、原水爆に対する作者の危機感をもって物語は終わる。
映画『第五福竜丸』 新藤兼人(監督)
美術《ヒロシマ三部作》 上野誠
美術《雨の夜》 鶴岡政男
デザイン「第5回原水爆禁止世界大会ポスター 原水爆禁止+核武装反対!」 粟津潔・杉浦康平

1960

歴史
2月フランスがアルジェリア・サハラ沙漠で初の核実験
6月「日米新安全保障条約」成立
文化
映画『タイム・マシン 80万年後の世界へ』 ジョージ・パル(監督) H・G・ウェルズ(原作)/アメリカ

1961

歴史
1月アメリカ・国立原子炉試験場で小型原子炉SL-1が出力暴走(レベル4)
7月ソ連の原子力潜水艦K-19 が冷却水漏れ事故
10月旧ソ連が北極海(ノバヤゼムリャ島)で史上最大の水爆実験
文化
映画『世界大戦争』 松林宗恵(監督)
漫画『ミュータント・サブ』(光文社 少女) 石森章太郎
ルミ母
「じつはあたしは20年まえ横浜で爆発にあって・・・その時あやしい光をあびたんです」
サブ
「えっ!あの!!」
「UFOだったかもしれないといわれている!?」
「ぼくのおかあさんも二十年まえ横浜にいたんです」
サブ
「そうだ!!もしかしたらUFO爆発による・・・怪光線の影響を受けたものどうしの血がまじりあったためにぼくのからだに変化がおきてきたのでは!?きっとそうだ!!」
(石ノ森章太郎『石ノ森章太郎萬画大全集』「ミュータント・サブ」 角川書店P.19、P.36)
漫画『ファンタスティック・フォー』 スタン・リー&ジャック・カービー/アメリカ
エッセイ『現代科学と人間』(岩波書店) 湯川秀樹
写真ほか『Hiroshima - Nagasaki document』 (原水爆禁止日本協議会)
土門拳・東松照明(写真) 重森弘淹 他(編) 丸木位里・丸木俊(画) 杉浦康平・粟津潔 他(装丁レイアウト)

1962

文化
漫画『超人ハルク』 スタン・リー&ジャック・ カービー/アメリカ
原子物理学者であるブルース・バナーが爆弾実験中に大量のガンマ線を浴び、超人的な怪力を持つ巨人ハルクに変身するようになる。ハルクの強さは彼自身の怒りに比例する。IS HE MAN OR MONSTER OR...IS HE BOSS?―表紙の言葉である。時にヒーロー、時に脅威にもなりえるキャラクターは当時新しい試みであった。
映画『その夜は忘れない』 吉村公三郎(監督)
文学『美しい星』(新潮社) 三島由紀夫

1963

歴史
2月日本・日本原子力研究所東海研究所の再処理試験室で爆発
8月アメリカ、イギリス、旧ソ連「部分的核実験禁止条約(PTBT)」調印
12月「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーが、エンリコ・フェルミ賞を受賞
文化
漫画『スパイダーマン』 スタン・リー/アメリカ
文学『つるのとぶ日 ヒロシマの童話』(東都書房) こどもの家・同人

1964

歴史
7月アメリカ・ウッドリバージャンクションの施設で臨界事故(レベル4)
10月中国が中国西部地区で原爆実験に成功
文化
映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』
スタンリー・キューブリック(監督)/アメリカ
文学『アトミック・エイジの守護神』(講談社 群像) 大江健三郎
文学『復活の日』(早川書房) 小松左京

1965

歴史
5月日本初の商業用原子力発電所の東海発電所が初臨界
文化
文学『ヒロシマ・ノート』(岩波書店) 大江健三郎
1963年から1965年にかけて著者が広島へ足を運び、原爆投下から20年近く経ってもなお、核による死の恐怖と戦い続ける被爆者の体験を綴ったエッセイ。1945年秋、米国側により原爆被害の終息宣言が出され、この声明から10年広島は沈黙した。しかしながらその陰では、自ら被曝体験をしながらも医療に従事する医師たちがいた。ケロイドに苦しみ隠れるように生活した娘たち。被曝から十数年後、原爆症を発症し、突然死の宣告を受ける被爆者たち。回復に向け努力する“悲惨と威厳”に満ちた被爆者たちの姿を描く。
美術《アトム・ピース》 ヘンリー・ムーア/イギリス
広島市現代美術館に収蔵されている彫刻《アトム・ピース》は「平和の象徴」とされてきたが、のちに「反核作品」なのか「原爆賛美」なのかという物議を広島市議会で醸した。同じ鋳型から制作された作品が、アメリカ・シカゴ大学では1942年に完成した原子炉の25周年を祝うモニュメントとして「ニュークリア・エナジー」というタイトルで飾られていたからだ。この出来事は、同じ作品でも、置かれた環境、向き合う者の立場によって、相反する意味をもつ可能性を示している。
  • 制作: 長崎剛志(N-tree)
  • 協力: 瀧本往人
  • 参考:「原子力・核・放射線事故の世界史」(原子力資料情報室共同代表・西尾獏/七つ森書館)

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