白井晟一の「原爆堂」展にあわせて制作された動画「未完の建築」。
動画には未収録の内容も含めて再構成したインタビュー記事を掲載します。
ハンナ・アーレントと「原爆堂」 (3/3)
岸井大輔さん(劇作家)
3・11を経たことで、岸井さんとして何か変化を感じていますか。
岸井:ありますね。地震の影響はないと思っていたんですけど、明確に変わった。よくする話としては、津波のあとに造られている「スーパー堤防」と呼ばれる防潮堤のことです。行ってみると分かるんですけど高くて海が見えないんですよね。でも、この間の震災で助かった人たちは、日々海を見ていて、昔から津波が来たらあの山に逃げなさいって言われていたわけです。そういう説話が残っていることが、大震災が起きたときには大事だっていうことが共有されましたよね。
実は、日本のアートプロジェクトというのは、阪神淡路大震災の時の反省から起きているものが大半です。もう建築だけではだめで、コミュニティの育成とか、美とか理念とかがないと、復興といってもただ同じ形のビルが建って、そこに住んでいる人は非常にストレスフルだとかいうのがわかって反省したんです。それで、アーティストとか町づくりにかかわる人たちが、皆で理念を編み出していったりする手法を磨いてきたわけです。そのなかで3・11が起きた。
だけど、そういう意味でいうと、それは結局失敗だったんです。役に立たなかった。なぜなら、防潮堤ができたからです。海を見えなくして、次の震災の時まで、千年後までもつわけがない。もったとしても人類は絶対防潮堤の向こうに住みますよ。そうすると僕はさらにもう一段、反省しなきゃいけないと思ったんですね。つまり本当にやるべきことは、ワークショップとかファシリテーションじゃなくて、津波が来たら逃げろっていう昔話を作って残すことですよ。
海が見えなくなった町で昔話を作って残しておかなきゃいけないというのは、前の津波の時に昔話を作った人よりも大きな仕事。ちゃんと今回の震災の記憶を千年後まで残る形にして、インストールしていくっていうことが、これからのアーティストの仕事になったんだと、被災地に入って活動しながら思いました。もう僕がいたことも忘れてしまったような未来において、何か人々が共有していくためにこそ、やっぱり芸術作品っていうのはあるんじゃないかっていうふうに、考え方が変わったんです。
いまのお話を聞いて、白井晟一の原爆堂のテキストにある「永続」という言葉が想起されました。
岸井:「永続」というのは、この建物を建てた人の気持ちとか、建てた時の目的とかが忘れ去られるっていうことですよね。忘れ去られても建物が建っているということは、つまり未来永劫において意味不明だということです。それは未来永劫に対話を生み出すということでもある。ここで白井が狙っているのは、そういうことだと思います。僕はそれはすごい共感する。
もとの意味も何もかも変わるけど、ずっと残る。それが建築の力ですよね。文脈なんか忘れ去られていっても、みんながずっと大事にし続けることで何かが発生する。そういう意味で言うと、説話と同じじゃないかなと思う。
宮本佳明さんが、原爆堂展のインタビューのなかで、活断層の上に古墳が並ぶように造られている場所の話をされていました。ここには近づいてはいけないと、そういう意味があったんじゃないかと……。
岸井:なるほどね。いや、そうとしか思えない神社仏閣が、たくさん被災地にもありましたよ。僕らの生活って、いまより前の人たちに多くを負っているんだよね。そういう人たちの知恵がなければ、この生活はできていない。だから、そういうスタンスで、何かものを考えたほうがいいと思う。お金とか利害だけで考えたら、千年後の人とか何の利害関係もないけど、人間ってそういうものをちゃんと考えた方がいいんじゃないかと思いますね。
建築家を含めて、こういうタイプのアーティストが注目されないのが、一番の問題ですよ。そういう人が尊敬される社会だったら、もうちょっと「こういうスパンで物を考える人もいるんだね」ってなりますから。世の中のエライ人もみんな利害と損得だったら、やっぱり自分も利害と損得だなって思いますよね。
原爆堂のような建物が日本で建たないのは、どうしてなのでしょうか。
岸井:典型的に原爆の不幸な記憶を後世に想起させるようなものは、おそらく日本政府もお金を出しやすいだろうし、実現しやすいと思いますね。でも、それが原爆の本当の反省になるのか、という問いを白井はしている。そうじゃなくて、みんなで自由な議論をしていくことが、つまり永続的な共存の期待をもっていくことが大事だっていうのが白井の考えていたことだと思います。でも、そのためには、そういう期待をしている権力じゃないといけないんですよね。つまり市民政府じゃないといけない。ちょっと日本はそこは微妙だと思いますね。
でも、日本人は芸術にお金を使わないっていうけど、すごい数の神社仏閣が民間によって維持されてきたんですよ。仏教では無縁大慈悲という言うんですけど。自分と縁もゆかりもない人に慈悲をもつ。千年後の誰かにかかわろうとする。これって公共性のことですよね。そういうものにお金を使ったほうが幸せになれるというお金持ちが、これまでは日本にずっと尽きずにいたはずなのに、いまは、いなくなり始めている。まだいるんでしょうけど、減っていると思います。どうしていなくなっているのかを考えてみたいですね。
原爆堂みたいなものが建つと、ちょっと超越に対する感性が復活するかもしれない。「分からないものって面白いね」っていう感性が復活するかもしれない。説明のないものに出会って、それを楽しむということが共有される場所になっていく。それがひいては原爆を防ぐことになると、白井さんは言っているんだと思います。好き勝手にみんなが考えて、相互に矛盾するような解釈がいっぱい出てくるような聖地になったらいいですよね。