白井晟一の「原爆堂」展にあわせて制作された動画「未完の建築」。
動画には未収録の内容も含めて再構成したインタビュー記事を掲載します。
ハンナ・アーレントと「原爆堂」 (2/3)
岸井大輔さん(劇作家)
「対話」というのは、この展覧会でもひとつのテーマにしているものです。ただ、日本には対話以前に、空気を読んで行動してしまう社会的傾向というか、無思考性みたいな問題があるのではないかと感じています。それについてはどう思いますか。
岸井:アーレントの『人間の条件』という本で、あまり知られてないのが、実は原子爆弾についての記述が結構あることなんですよね。原子爆弾の話から始まって、原子爆弾の話で締めているんです。ちょうど無人人工衛星のスプートニクが打ち上げられた時代ですよね。まだコンピュータも開発途中だけど、いずれ人工知能とかが人間を追い抜いていくし、しかも人間はそれを熱狂的に求めてしまうだろうと。そうなってしまう前に「人間ってどういう状態だったっけ?」というのを、ちゃんと考えておく必要があるんじゃないですか、といって始まる。その重要な分岐点が、アーレントにとって原子爆弾なんですよ。
なぜかって言うと、核爆発っていうのは、基本的には地上ではなく太陽で起きていることですよね。つまり、宇宙のものを地球上に持ち込んじゃってるわけですよ。だから、人間の条件がここで壊変されてるわけ。「本書は、政治の面で言うと、今日私たちが生きている現代世界は、最初の原子爆発で生まれたのである」と書いてある。つまり冷戦のことですね。原子爆発で生まれた世界で生きている。だから、もはや冷戦構造では、我々は人間の理屈で考えてないと言っているわけ。
アーレントは、そうなると2種類の世界阻害が起きるとしています。人間の条件が解体すると、2つの方向で人間はフライトをするだろうと。ひとつは地球から宇宙へのフライト(逃避)と、もうひとつは現実から自分自身へのフライト(逃避)。つまり、引きこもりみたいなことですね。その二重のフライトを、その根源にまで遡ってあとづけるのが、この本の仕事だって言ってるんですよ。
これを1958年に言っているんだけど、この二重の逃避って、まさに十数年前に流行った「セカイ系」と呼ばれるアニメのことですよね。自分の彼女が、社会とか、そこにかかわる人とかを全部すっ飛ばして、急に世界の危機と戦うみたいなジャンルです。もうちょっと前のSFは社会派だったわけですよね。官僚の会議とかもちゃんと描いている、でも、そういうものをすっ飛ばすような作品がたくさん作られるようになった。このままいくと社会の話を誰もしなくなると、アーレントはまさに予言していたと思うけど、それが原子爆弾の影響下に起きてる政治のせいなんだと言っているわけですね。
つまり、人間が人間である前提の、みんなで一緒にいるっていうことが崩れちゃったわけです。そういう状況下で思考し続けるっていうのは困難ですよね、というのが、『人間の条件』で書かれていることです。この本では、「それで、どうしたらいいか」ってことは言ってないんですよ。その次の著書『革命について』では、憲法というか、皆がいられるプラットホームをちゃんと作り、その上で議論できるという約束をちゃんとしましょうとアーレントは言っています。でも、それは本人も、すごく困難だと思ってたんじゃないかな。原爆が落ちちゃった後に、他人と共にいるのが人間の基本的な条件ですよということを強要するのは困難ですよね。宇宙に行くか、自分にこもるかしちゃうでしょと。僕もそう思いますね。
対話を復活させるというのは、今の社会では無理なのでしょうか。
岸井:全然違う立場の人と話をすること、自分にとって不都合なことであっても真実を見ていくことがないと、人間は他人と一緒にいれないわけ。それが教養っていうことですよね。自分にとって気に入らない奴の話も聞き、自分にとって納得いかないニュースもちゃんと調べて見るみたいなことですよね。でも、今はそうならなくなっている。それが「ポストトゥルース」という言葉の意味でしょ。自分の納得のいく情報を得て、自分と話が一緒の奴としゃべるという状況ですよね。これはもはや止めようがないよね、と思っていますね。
「そんな自分の内輪でばっかり固まってなくて、もっと全然違う人ともしゃべってみようよ」みたいなことを言うと、何かつまらない奴みたいになっちゃうんだよね。いまの状況だとね。その人は別につまらないことを言ってるんじゃなくて、プラットホームを大事にしようって言ってるだけですよ。つまり公共ですね。皆がしゃべれる状態を大事にしようって言っていると、何か日和見のダサイ奴みたいなことになってしまう。それで、極端なことを言う奴が人気を得て、それに「そうだそうだ」って同意する極端な奴らのかたまりがいっぱいできるわけです。
だから、白井がここで言っている、「かつて人々の眼前に現れたことのない造形のピュリティが」は、その「眼前に現れたことのなさ」が大事なんですよね。つまり、誰もわからないもの。それがプラットホームの死角なわけですよ。僕は現代芸術として演劇をつくっているから、そういうものを作り続けないといけないと思っていますが、いまの社会でそれをバーンと宣伝してやろうという気にはもうならないですね。
それは、どうしてですか。
岸井:無駄だからですよ。いや、長期的には何かやった方がいいと思います。僕も千年後の人が読んで役に立つようなものを書こうとは思っています。もちろん、そういうものが役立つかもしれないと思っているんですけど、「みんなが物を考えて、多様な人が話し合う状況が現れるようにしたほうがいいと思うんですよ」みたいなことを簡単にはもう言えないと思っています。