白井 晟一の「原爆堂」展 新たな対話にむけて

白井晟一の「原爆堂」展にあわせて制作された動画「未完の建築」。
動画には未収録の内容も含めて再構成したインタビュー記事を掲載します。

過去ではない「広島」に、自分の表現で向き合う (1/3)

石内都さん(写真家)

石内さんは、2007年から現在まで、広島の原爆で亡くなった方の遺品の撮影を続けていらっしゃいますね。

石内:そうですね。10年近くになります。平たく言うと「遺品を撮っている」となりますけど、私自身は別に遺品を撮っているつもりはあんまりなくて、目に見えない時間みたいなものを撮れたらいいなと思ってやっております。

広島で撮影されることになったきっかけを教えていただけますか?

石内:実は、それまで広島に一度も行ったことはなかったんです。母の遺品を撮った『Mother's』というシリーズの写真展をしたときに、ある出版社の編集者から「広島を撮りませんか」という企画がありました。ですから、最初は私から積極的に広島にかかわったというより、言ってみれば、仕事として始まりました。

そして、2008年に写真集『ひろしま』を発表されました。

石内:もともと1年間だけ撮って写真集を作るという企画だったので、写真集ができたら普通はそれで終わりますよね。それがなぜ終わってないかっていうと、毎年新しく遺品が入ってくるんですよ。そのことに、私はびっくりしちゃって。じゃあ毎年新しい遺品を撮ろうということで、今も続いています。

もう戦後72年ですよ。それでも、やっぱり遺族の方々は大切に遺品を持っているんです。それで、8月6日近くになると、自分で持ち切れなくなった方が資料館に渡すんです。個的なものが公になる、その瞬間を撮っています。

最初にオファーを受けたときには、「どうして私が広島なの?」と思われたそうですが……。

石内:広島っていうのは、もう撮り尽くされてると思っていたんですね。ある種の表現という意味では、戦後で一番大きなテーマですよね。ただ、その編集者が、広島は基本的に記録的な部分で写真に撮られてきたけれど、これから広島はアートでしか残らない。だから記録じゃなくてアート、表現として撮ってほしいと言って、私に頼みにきたわけです。それで、じゃあやってみようかと初めて広島に行ったわけです。

広島に行ってみて分かったんですけれども、すごくがんじがらめなんですよね。広島という歴史や過去に。訴えなきゃいけない被害者であるということが、すごく広島をとらえている。それだと限界があるわけです。でも、私の場合は、まったくよそ者だから。そういうよそ者の目線ってすごい大切なんですよ。

アートっていうのは、やっぱりその人の価値観ですよね。その価値観を形にすること。私は記録で広島を撮っているわけでもないし、訴えるために撮っているわけでもない。私も、もしかしたらあのワンピースを着てたかもしれない――そういう現実感なんですよ。あの1945年の8月6日に、私が広島にいて、少女だったら、私が撮ったワンピースを着てたかもしれない。私のものかもしれない。そういう現実感がすごくありました。

©Ishiuchi Miyako「ひろしま#9 Donor:Ogawa, R.」

©Ishiuchi Miyako「ひろしま#41 Donor:Kawamuki, E.」

©Ishiuchi Miyako「ひろしま#43 Donor:Yamane, S.」

©Ishiuchi Miyako「ひろしま#69 Donor:Abe, H.」

©Ishiuchi Miyako「ひろしま#82 Donor:Uesugi, A.」

©Ishiuchi Miyako「ひろしま#88 Donor:Okimoto, S.」

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