白井 晟一の「原爆堂」展 新たな対話にむけて
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お知らせNews

2022 1.18

日曜美術館放送のお知らせ

日曜美術館にて白井晟一が取り上げられます。
2022年1月23日(日) 午前9:00~9:45 放送 Eテレ
https://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/PYQ98GK2QZ/

渋谷区立松濤美術館では「白井晟一 入門」展が引き続き開催中。
第1部終了。第2部は2022年1月4日(火)〜1月30日(日)
最新情報は美術館のホームページでご確認ください。
https://shoto-museum.jp/

2021 10.07

「白井晟一 入門」展開催のお知らせ

渋谷区立松濤美術館にて白井晟一の展覧会が開催されます。

展覧会名
渋谷区立松濤美術館 開館40周年記念 白井晟一 入門

会期
第1部/白井晟一クロニクル 2021年10月23日(土)~12月12日(日)
第2部/Back to 1981 建物公開 2022年1月4日(火)~1月30日(日)

会場
渋谷区立松濤美術館 東京都渋谷区松濤2-14-14
TEL 03-3465-9421
https://shoto-museum.jp/

開館時間
午前10 時〜午後6 時(入館は午後5 時30 分まで)
土日祝日・最終週は日時指定制

休館日
月曜日(ただし1 月10 日は開館)、11 月4 日(木)、 12 月13 日(月)〜1 月3 日(月)、1 月11 日(火)
※会期や開館時間、イベント等変更する場合があります。 最新情報は、美術館のホームページでご確認ください。

2019 07.29

加藤典洋氏の原爆堂と白井晟一についての発言

『白井晟一の原爆堂 四つの対話』 (2018年 晶文社)より抜粋してご紹介いたします。


加藤典洋氏 「未来と始原の同時探究」から

 エッセイ集の『無窓』を読んだのですが、この人のさまざまなものの考え方が、自分の考え方、とくに一九九〇年代の仕事、また3. 11以降に試みてきたことと無関係ではない、というふうに思いました。(P203)

 (秋ノ宮村役場について) 戦後すぐの特異な設計家の作品という観点から言うと、じつに謙虚なんです。昔からの村の仕組みを近代化しようというのではない。そうではなくて、そこでの仕事、生活をリスペクトしたうえで少しでも楽しく、過ごしやすくしようと自分のほうから黙って近づき、寄り添っている。(P206)

 (秋ノ宮村役場竣工式スピーチについて) ええ、あのスピーチの草稿は面白いですね。「はじめに村の幹部諸子とご懇談しました時のことは残念ながら非常に不快な思い出でありました」などと書いてある。エッセイのほうはもう少し抑えられた文章ですが、そこにも「嘲笑」や「悪罵」といった言葉が見られます。当初は、なにかそういう否定的対応があったのでしょう。ただそういった「好条件のなさ」というか、悪条件に対して、それを、ある胸の厚さでずっしり正面から受け止めるというようなところが、白井晟一にはありますね。求めず、訴えない、施主との関係というのでしょうか。そこにこの人のテイストがある。 (P210)

 経済的な制約をはじめとして、施主との関係、学閥など人的コネクションの問題、企業との関わり、そういうことを考えると、この強度な謙虚さとも言うべき白井晟一の“独異”さはいよいよ際立つのですが、そういう白井晟一の現実との対し方、そして考え方が象徴的に現れているのが、今日のお話の主題でもある「原爆堂計画」だろうと思います。(P212)

 (原爆堂計画発表の翌年立て続けに発表されたエセー「豆腐」と「めし」に触れた後に)
 だけど面白いのは、一方は「原爆堂」で、もう一方は「豆腐」やら「めし」でしょう。一見まったくかけ離れたイメージのものが、白井の中で同時並行していることです。しかし、よく見ると、「原爆堂計画」と伝統論の文章展開と、双方が(後者の「縄文的なるもの」も含め)しっかりと対応していることが分かります。つまり、伝統についてここまで始原に向け遡及して考えなければ、「原爆堂」のような未来永劫まで続くものは構想できない。もしこういうものを日本という場所で、原爆を落とされたという経験がある中で、世界の未来の祈念に向けて構想しようというのであれば、それを支える自己省察、おのれの文化の源泉への態度は、どのように深く厚いものでなければならないか。そういうことを、明らかに白井晟一は頭において書いています。(P217)

 (白井晟一のエセー)「縄文的なるもの」が他の人たちの伝統論と決定的にちがうのは、縄文と弥生の葛藤のうちに伝統を捉えようとしているところです。では縄文と弥生の葛藤とは何か。たぶんニーチェの『悲劇の誕生』が念頭に置かれているのでしょうが、ギリシャ文化において悲劇とは何か、というと、ディオニュソス的なもの(陶酔の力)とアポロン的なもの(明晰の力)がぶつかり合って、そこから生れてくるのが悲劇の力だというのがニーチェの考えです。しかしそのうちディオニュソス的なものがアポロン的なものに駆逐されて、ギリシャが明晰なものだけになってしまうと、悲劇は消え、やがて文化も滅びる。そのようであってはならないと、白井晟一は、「弥生的なもの」に席巻された伝統観の中で、「豆腐」の「用」の美、「めし」の「祈念」の意味と、形にならない「縄文的なもの」の力の出所をさらに始原に向かって追尋していきます。それがこのとき、「原爆堂計画」における「かつて人々の眼前に表われたことのない造形のピュリティ」の追及と白井晟一の中で並行しているのです。(P219)

 『日本原爆論体系』(日本図書センター)という政治学者の坂本義和さんらがつくった全七巻の本があるのですが、その中に「広島平和記念公園」がどういうふうにつくられたか、その辺りのことが詳しく出ている巻があります(第七巻 石田宣子「過ちは 繰返しませぬから—碑文論叢の歩み」。また浜井信三『原爆市長—ヒロシマとともに二〇年』も)。それを読むと、広島は敗戦直後、原爆でやられてお金も何もなく、どうやって復興したらいいか分からないのです。日本は占領されているので、特殊な爆弾でやられたから特別な予算をつけてくれと要求しても、ダメなんです。それでいろいろ交渉を試みるうちに知恵をつけた人が、原爆による惨害はこれほど大きいということではなく、広島は原爆被害をこえて未来の平和のために復興するというポジティブな「平和記念公園」のアイディアを考える。そうするとこれは使えるというので、占領軍はお金をつけるわけです。そこから平和プロジェクトが始まっていく。ですから慰霊碑の言葉にも、米軍が落としたということは書けない。「過ちは繰り返しませぬから」というような、主語がないものになる。おなじく「原爆」という言葉は、この平和記念公園計画の中で、禁句になります。(P225)

 白井晟一の在り方を指してぼくは先ほど“独異”な人と呼びましたが、かれはあるべき建築家の像を目標に、そのモデルに自分が近づこうとしているのではない。あるべきモデルのその先に新しい在り方を自ら作り出そうとしている。そういうところが、後継者を持つ創始者たちとちがい、孤独だけれども人とともにあるところだと思うのです。 人々とともにあって、かつ孤独であること。まともな建築家というのはそういう人でしょうが、白井という人もそうだと思います。本当に、時代の中では隔絶した存在でしたが、それでもこの白井晟一という人に大きな仕事をさせるだけの環境が日本の戦後にあった。 そのことが救いだと言えるのかもしれません。(P232)

 ついこの間、表参道のギャラリーで開かれた「白井晟一の『原爆堂』展 新たな対話にむけて」(二〇一八年)を見に行ってきました。このほどつくられたらしいCGによる「原爆堂」の紹介映像を見せていただいて、本当に感動しました。あれを見てはじめて、「原爆堂」がどういう建物なのか、それが、未来の一点で、われわれを待っていることをありありと感じることができたと思います。(P234)

 この前の戦争では三百十万人が日本で亡くなりました。ということは、3000万から4000万もの人が自分の身近の人間に死なれているということです。当時日本の人口は7000万人だったので、ほとんど半数がそういう目に逢っていたことになります。自分の身近の人に死なれて、それも戦争なんかで死なれたら、その後の人生はもうない。そう思います。とはいえ、その苦しい体験から生まれる無念は生きている限り、その生き残った人を動かします。白井晟一はそういうものをちゃんと受け止めることができる人間だった。また、そういう建築家でもあったと思います。
 それが、なぜ原爆という人類史的な惨禍を経験した社会から、それを受けとめた建築計画が、かれ以外からはでてこなかったのか、ということのもう一つの答えでしょう
(P237-238)

2019 06.07

加藤典洋さんの訃報に接して

白井晟一の「原爆堂」展開催から一年が経ちました。
また、大変残念なことに「白井晟一の原爆堂 四つの対話」でインタビューに応えてくださった、加藤典洋さんのご逝去の報に接することとなりました。加藤典洋さんのご逝去を悼み、心からご冥福をお祈り申し上げます。
白井晟一研究所 Weblogで加藤典洋さんの訃報に接して「加藤典洋と白井晟一の原爆堂計画」の記事が公開されました。

2018 10.14

加藤典洋お話会「東京五輪と原爆堂」 加藤典洋×宮森敬子 開催します。

10月27日(土)18:00~ 長野県北佐久郡代田町塩野400-158
pace around (ペイスアラウンド)
TEL.0267-32-7007
FAX.0267-32-7010
Mail: info@pacearound.co.jp
http:/pacearound.com/
参加無料要予約
同所で宮森敬子個展「樹拓と言葉」

2018 07.26

「白井晟一の原爆堂 四つの対話」が出版されました。

核の問題と対峙するアンビルトの傑作は3・11以後の世界に何を問うのか――
1955年、白井晟一の「原爆堂」は核の問題と対峙する建築として『新建築』誌上でいくつかの図面とパースが発表されたが、ついに実現することはなかった。半世紀が過ぎ、2011年3月11日に起きた東日本大震災による未曾有の破壊と福島第一原子力発電所の事故を経験し、いま「原爆堂」に託された問いがアクチュアルな意味を帯びている。白井晟一の思想や言葉を手がかりに、「原爆堂」の今日的な意味を4人の識者との対話から探る。
https://www.shobunsha.co.jp/?p=4776

【目次】
原爆堂について――白井晟一
図版(パース/断面透視図/一階平面図/地階平面図/鳥瞰配置図)
序 言葉と建築 白井晟一の戦後と原爆堂構想 ――白井昱磨
四つの対話 聞き手:白井昱磨
岡﨑乾二郎「建築の覚悟」
五十嵐太郎「社会と建築家の関係」
鈴木 了二「建築が批評であるとき」
加藤 典洋「未来と始原の同時探求」
あとがき

白井晟一の原爆堂 四つの対話
岡﨑乾二郎、五十嵐太郎、鈴木了二、加藤典洋
聞き手:白井昱磨
四六判変型・上製 252頁
定価:本体2000 円+税
978-4-7949-7028-2 C0052
〔2018年7月〕
2018 07.01

たくさんのご来場ありがとうございました。展覧会のご報告

●展覧会名 「原爆堂」展 ~新たな対話に向けて~
●会期 2018.6月5日-30日 (27日間)
●入場者数:のべ1774名
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