白井 晟一の「原爆堂」展 新たな対話にむけて

白井晟一の「原爆堂」展にあわせて制作された動画「未完の建築」。
動画には未収録の内容も含めて再構成したインタビュー記事を掲載します。

東日本大震災を経て、
再び「原爆堂」が現代的な意味を持つ
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五十嵐太郎さん(建築史・建築批評家)

五十嵐さんはご著書『日本建築入門』などでも白井晟一の原爆堂を取り上げていますが、初めて原爆堂を知ったのはいつでしたか。

五十嵐:1990年頃、大学の卒業設計で原子力発電所や核に関係することをテーマに取り上げたのですが、先行事例や類似施設などを調べていた時に出会ったのが最初だと思います。おそらく大学4年生のときでしょうか。ただ、その後はずっと忘れていたんです。2011年の東日本大震災で福島第一原発事故が起きたときに、その忘れていたということに対して思うものがありました。

卒業設計のときはあんなに関心があったのに、一度は完全に忘れて、その結果、大事故が起きた。未だに収束してるとは言えない状態です。そのことで以前に問題提起したことが、もう一度意味を持ってきました。それは、おそらく原爆堂も同じだと思います。東日本大震災が起きて、もう一度核と建築の関係といったことが問い直されるというところがあって、原爆堂も再び現代的な意味を持ったのではないかと思います。

「核と建築の関係」には、例としてどういったものが考えられるのでしょうか。

五十嵐:たとえば、僕の場合は建築のなかでも専門が歴史学ですが、核の持っている人知を超える長い時間の問題に関心がありました。先ほど触れた卒業設計を考えたのも90年頃なので、チェルノブイリの原発事故(1986年)後です。ただ、反原発そのままでは作品にはならない。いろいろな議論をしていくなかで、高レベル放射性廃棄物が、数千年とか数万年という人間の管理できる時間を超える長さで影響力を持つことに関心をもちました。

当時はバブルの絶頂期で、建物はスクラップ&ビルド、造って壊してのスピードがものすごく速かった時代です。そのときに、これはアイロニーですけども、東京湾が絶対安全だというのであれば、東京湾の人工島に再処理工場とのセットで原発を造って、地下1千メーターぐらいのところに高レベル廃棄物の貯蔵庫も一緒にするということを卒業設計として考えました。原発そのものは40年も稼働すると使えなくなるという話だったので、稼働できなくなったらコンクリートで固めてしまう。そうすると、その下には高レベル放射性廃棄物が眠っているので、どんなことがあっても動かすことができないモニュメントができる。

要はピラミッドみたいなものを考えたんです。我々はピラミッドという5千年前の建物を見ていますが、20世紀に建った建物で、5千年後とか数万年後も存在できるようなものがあるのかと考えると心許ない。20世紀に造った建造物でピラミッドみたいなことが可能だとしたら、核の持つ負の側面を逆に利用して、未来に「残ってしまう」モニュメントなのかもしれない、と。『10万年後の安全』という放射性廃棄物の最終処分場であるフィンランドのオンカロ処分場を扱ったドキュメンタリー映画がありましたけど、あれと基本的には同じ発想を自分の卒業設計でやっていました。

もう1つ、それを宗教施設に見立てるということがありました。つまり、地下に高レベル放射性廃棄物が眠っているので、誰も近づけないし、何があっても動かせません。もし人類の記憶がいったん途絶えて、高レベル廃棄物が眠っていることを忘れてしまったとしたら、それは宗教施設のように見えるだろうと。あそこに近づくと何か良くないことが起きる、つまりサンクチュアリ(聖域)が生じてしまう、そんな物語を卒業設計につけました。

核と建築という意味では、ネガティブな反転した宗教施設みたいなものを造り得るんじゃないかというのが、僕のやった卒業設計です。原爆堂も、ある種のモニュメンタリティというか、超越的な時間性を感じさせる建築として構想しているように感じるので、白井晟一さんの中にもそういったイメージはあったのではないかなと感じています。

「卒業設計後、忘れていたことに思うものがあった」というのは、どういった意味でしょうか。

五十嵐:ちょうど90年代には「原発はむしろクリーンなエネルギーだからいいんだ」みたいことが、いろいろな形で宣伝されていて、僕もだんだん卒業設計で自分が考えていたことを忘れていったんです。それで、2011年に原発事故が起きた時には責任を感じました。もしかしたら、きっと敗戦時の日本人にも、こういう気持ちはあったんじゃないかなと思ったんですよね。つまり「何かおかしいな」とは思っていたけど、そのことをいつの間にか問わなくなっていて……。

僕も含めて、3・11が起きたときに30代とか40代とか、あるいはそれ以上で、すでに選挙権があった人たちは、少なくともそれ以前に起きてきたことも知ったうえで、ある意味、そういう社会を許容してしまっていた部分もある。チェルノブイリ原発事故後の数年間は、日本の中でもかなり議論がされていたんですよね。僕もそういったところから卒業設計でそのテーマに取り組んだのに、結局やめて、忘れてしまっていた。そういう意味での責任は、福島原発で事故が起きた時にはやっぱり感じました。

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