白井 晟一の「原爆堂」展 新たな対話にむけて

白井晟一の「原爆堂」展にあわせて制作された動画「未完の建築」。
動画には未収録の内容も含めて再構成したインタビュー記事を掲載します。

東日本大震災を経て、
再び「原爆堂」が現代的な意味を持つ
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五十嵐太郎さん(建築史・建築批評家)

あらためて、五十嵐さんから見た原爆堂の特徴を少し説明していただけますか。

五十嵐:そうですね。一般的な建築というのは、クライアントから、こういう要件と予算でこの場所で建てて下さい、と依頼されるものですが、原爆堂が変わっているのは、そうした依頼がないのに構想されたというところです。おそらく予算も考えていないと思います。そういうところはアートに近いのかもしれません。非常に自発的に考えられた提案です。最初に『新建築』という雑誌でプロジェクトが発表された時にも、場所の設定はないんですね。何か荒野みたいなところにこれが建っているっていう感じで、もしかすると本当に原爆が落ちた後の、何か荒涼とした風景の中に建っているのかもしれないんですけども。

原爆堂の設計図

建物としては、くの字型に折れ曲がったエントランスになる場所があって、そこから入り、いったん地下に潜ります。当初は丸木位里・赤松俊夫妻の「原爆の図」をおさめる美術館として提案されたものですが、ギャラリーのある建物が非常に澄んだ水の池みたいなものに囲まれていて地上からはアクセスできないので、いったん地下に潜ってから上がっていくのです。そこには、一種の再生のようなイメージがあります。

その池の中にある建物というのは、円筒型のボリュームが四角いボリュームを突き刺しているんですね。そして、そこが展示室になっている。非常にプリミティブな幾何学的な造形の組み合わせでできていてモニュメンタルな表現です。一方で片持ち梁(キャンティレバー)といって、円筒が直方体を貫通してるんだけど、そこに柱がせり出している。そういうところには近代的な技術の反映というのがあります。

さらに、上からアプローチ部分まで含めて全体の配置図を見ると、なんどなく原爆のきのこ雲みたいなシルエットが浮び上がるような、ちょっとシンボリックな形をしています。これは上から見た時じゃないと分からない造形になっていますね。あと、あまり気がつかれないのですが、火の柱みたいなものが2本あります。おそらく永遠の炎だと思うのですが、こうしたモチーフは洋の東西を問わず戦没者の施設などで使われているものです。

一般的な建築は、クライアントの依頼があって造られることが多いということですが、そうなると建築家が思っていることを表現する難しさもあるのでしょうか。

原爆堂の設計図

五十嵐:まあ、そうでしょうね。建築家は、そこに機能とか実用性だとかを与えないといけないですよね。いわゆる同じ視覚芸術でも、彫刻であるとか絵画だとかは、そのものの実用性は一般的には問われません。もちろんそれが副次的にいろんな波及効果を及ぼすことはあると思うんですけど。ただ、建築の場合は、一般的には直接それ自体が実用性を求められます。

原爆堂の場合は、一応ミュージアムとしての機能があるんだけれども、非常に彫刻的な要素というか、モニュメンタルな要素も同時に持っているので、彼の中では、エジプトだとか、ああいう太古の、ちょっと時間を超えて存在しているような建造物のイメージも重ねていたんじゃないでしょうか。

それから、彼はこの原爆堂のプロジェクトについて、みんなが建てたいと思って建設できたらいいんじゃないか、みたいなことを書いています(※「この計画案の熱心な支持者達とともに、戦争のない永久平和を祈念するおなじ願いの民衆の洽き協働によって、またぜひともそういう成り立ちからでなければできない建物であると思つている。」白井晟一/『新建築』1955年4月号)。今なら、小さい建物とかで、クラウドファンディングでその主旨に賛同する人がお金を出し合って造るっていう例はすでにあると思いますが、多くの人の賛同が集まるのなら実現するだろうっていう、そういう意味での「民衆の建築」としても考えていたのだろうなと感じますね。

逆に言うと、そうした一般の賛同を多く得ないと、当時「原爆堂」を建てることは難しかったと思われますか。

五十嵐:ミュージアムの造り方としては、たとえばすごいお金持ちや財団、企業などが建てるということもあります。ただ、原爆堂が計画された1950年代半ばだと、まだ日本に公立の美術館がほとんどない時代なので、それはイメージしてたものとはちょっと違うのかな。

そのうえで、「原爆堂」という名前ですよね。当時は、サンフランシスコ講和条約の署名から、まだ4年くらい。あの時代に、原爆堂という名前の建物を建てようとしたら、もしかすると政治的にも配慮すべきことがあったのかもしれません。これはただの僕の想像に過ぎませんが、それだけ名前のインパクトはすごいですからね。広島の平和記念資料館、広島ピースセンターにも、「原爆」という言葉は名前に使われていないんです。これらのプロジェクトも50年代には始まっているので、原爆堂が発表されたのとほぼ同時期のことです。ちなみに、1970年の大阪万博でも、原爆を入れる予定の展示内容が、アメリカに配慮して変更させられたそうです。

日本に「原爆」という名前がついた建築がほとんどないことは意外ですし、象徴的にも感じられます。一方で、負の遺産となるような建築がしっかりと造られている国もありますね。

五十嵐:たとえばドイツなどをみても、プラスであれマイナスであれ、歴史や記憶を残すことへの基本的な態度が違うなと思うんです。ベルリンの町を歩くと、もちろんダニエル・リベスキンドが設計したベルリン・ユダヤ博物館はすごく目立ちますけど、あれ以外にも数えきれないぐらいの戦争の痕跡、歴史の痕跡っていうのが、あちこちにいっぱい残っています。ピーター・アイゼンマンが手がけたホロコースト記念碑(正式名称:虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑)もそうだけど、とにかく基準値が違うっていうのかな、町の至るところに戦争の痕跡が残っていて、それが当たり前なんですよね。

日本の場合は、それが当たり前ではない。今回の東日本大震災の震災遺構にもつながると思うのですけど、もうほとんど限られたものしか残っていません。それが国民性なのかはよく分からないですが。もちろんかつては木の文化だったので、廃墟の状態で残るというのは物理的に難しかったわけですけど、少なくても近代以降は日本でもコンクリートの建築は造られています。だから、長期的に保存できなくはないのに、やっぱり日本の都市空間に戦争や震災の記憶はほとんど残っていない。何か基本的な構えが違うように思います。

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